この大空に翼を広げ
1951年(昭和26年)
9月 おとめ座 横浜に生まれる。
父は牧師、母は没落貴族の末娘であった。
幼少時の伊達は、父の語る宗教的な訓話に深い感銘を受ける素直な子供だった。
聖書は父の指導がなくても主要なものは殆ど暗記したほどである。
父は、スポーツ、殊に武道を愛し、伊達もその薫陶を受け、逞しく育った。
1960年(昭和35年)
6月、教会にザンゲに来たチンピラをかくまった父は、
そのチンピラを追う暴力団に宗教的な理由から、無抵抗のままリンチされ、そのショックで急逝した。
母は警察に訴えたが、暴力団と癒着した警察はとりあわなかった。
挙句の果て、かくまっていたチンピラが、失意の母を凌辱し、母はそのショックもあって、自殺した。
その一部始終を、伊達は見ていた。
日頃から鍛練していた父の逞しい肉体は何の役にも立たなかった。
主の教え=宗教も何の力もなかった。そして、警察も信用できない。
どんなに親切にしてやっても、人間の心も信用できない!
母を凌辱して、都内へ逃亡したチンピラの居所を伊達は知っていた。
小学3年生の伊達は単身上京し、チンピラの隠れ家で、その就寝中、チンピラの拳銃で射殺した。
この事件はいまだに迷宮入りとなっている。伊達は都内をアテもなくフラつき、
ある群衆の渦に巻きこまれ、気付いた時は国会周辺の修羅場の中にいた。
それが、60年安保闘争のクライマックスであったことを、後で知る。
その年7月、伊達は父の遠縁の家(青森)に引きとられた。
いきなり見知らぬ家に入り、見知らぬ家族となり、言葉(方言)も全く通ぜず、
土地のワンパクどもには白い眼で見られ、それ以来、伊達は貝のように心を閉ざした。
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但し、その年7月、岸信介の殺傷、10月、浅沼稲次郎の刺殺、
翌年2月の嶋中テロ(中央公論社社長)事件のニュース報道には、人知れず異様な関心を寄せた。
遠縁の家は、小さなリンゴ園をもつ中流の家庭であったが、大人たちは、わずか10才にして全く口をきかず、
しかも何の世話も焼かせない伊達を、ただ黙って見守っていた。
伊達は、その頃からラジオや時計の分解、組み立てに興味を持ち、家の中にこわれた器機があれば、
家人のいない時にそっと手入れしておくことがあった。それが、精一杯の"借りを返す"やり方だったのだ。
決してムダ口をたたかず、ムダメシを喰わない。今に至るまで少食なのは、そのせいである。(リンゴは今でも嫌いである)
しかし身体は父に似て、どんどん大きくなった。彼はそれをうとましく思ったことがある。
その家におじいさんがいた。狩猟期になると、伊達を山につれ出し、時には猟銃を撃たせた。
どう猛なイノシシや熊と対峙したこともある。血を見ると心が騒いだ。
何の動物であれ、その断末魔の瞬間に出会うと、貝のような心が、大きく開く時があった。
おじいさんは無口な人であった。殆ど口をきいたことはなかったが、伊達は、この老人だけが好きだった。
その老人も死んだ。メス熊を撃ち倒した直後、仔熊が現れ、一瞬だけ、トドメの一発を忘れた。
手負いの熊は、その一瞬の隙に老人を襲ったのだ。
伊達は、老人の死を悲しんだが、一方では、一瞬とはいえ、ケモノに憐れみを持った老人を呪った。
1968年(昭和43年)
青森市内の名門高校に入学。頑丈な身体を見込まれて、全ての体育クラブから誘われたが、断わる。
肉体など何の役に立つものか。
2年生の時、全国に学園闘争の嵐が吹き荒れ、この高校も全共闘が学校側と対立した。
panitballの男あなたはで撮影することができます
伊達は全く無関心だったが、8時間にも及ぶ全校生立会いの団交の席上、伊達は全共闘委員長と学校長をいきなり殴りつけた。
その理由は今もって明らかでない。
伊達は次第に外国に行く夢を抱きはじめた。
クラブにも入らず、せっせと外国語の勉強をしていた。図書館にこもっている間に、詩や哲学、心理学にも興味を持つようになった。
3年になって恋をした。青森市内のジャズ喫茶で知り合った年上の女。寝た。煙草を吸った。酒を呑んだ。
おだてられた.....そして女は不意に青森を去った。女が言っていたことは、あとで調べたら全てウソであった。
それ以来、ジャズを聞くと吐き気がする。
女というものは、外面的にこそデリケートだが、内面的にはやさしさとデリカシーが極端に欠ける。
ずるくて打算的で、それでいて妙に強い、と知る。
1971年(昭和46年)
東京外語大にトップの成績で入学。奨学金援助である。東京に戻ってきたのだ。
そこは、学生もサラリーマンもすべての女たちも、画一化され、ミニチュア化されて
与えられた小さな快楽だけで満足するドブネズミの壮大なたまり場だった。
街にはフヌけたフォークソングが溢れていた。それ以来、フォークやニューミュージックと称するものには、吐き気がする。
伊達は自分が小さく見えた。自分を大きく、深々と包みこんでくれるものが欲しくなった。
そして出会ったのが、深遠なクラシック音楽の世界であり、大学の射撃部だった。
その世界に遊ぶ以外、大学の図書館で、ニーチェなどの読書にふけった。
1975年(昭和50年)
日本の誇る世界的な通信社に入社。入社早々、特派員になるには、誰も行きたがらない戦争国へ志願することである。
ちょうど、特派員の遊軍記者に欠員が出たのを幸いに、伊達は志願した。
どのようにラスベガスのカジノの火かき棒へ
アンゴラの内乱をかわきりに、レバノン内戦、インドシナ戦争、ウガンダ内戦と駆け巡った。
おびただしい血と硝煙の中で、伊達はシャッターをきりながら
次第に自分の中にかくれすんでいた野獣のうめきが、どうにもおさえきれないことを知った。
1979年(昭和54年)
伊達が送信してくる写真や原稿に客観性が皆無になったため、強制的に日本に連れ戻された。
一転して、外信部の片隅での平凡なデスクワークの日々。伊達は退社した。
大学時代のゼミの友人にすすめられ、翻訳の仕事でくいつなぐ日々が始まった。
そして80年9月、29歳になった。
このまま老いさらばえ、自らもドブネズミの一匹として、中年の30代を迎えねばならないのか-----。
優作ファン無料奉仕、ロケに1300人/1980年8月2日付記事を印刷する
1980年8月2日付 14面 松田優作映画のエキストラならタダでもいいと、ファン1300人が参集して、製作元の角川映画や配給元の東映関係者を大喜びさせた。これは1日、東京・日比谷公会堂で行われた「野獣死すべし」(大藪春彦原作、村川透監督)=10月4日公開=のコンサート会場ロケのことで、松田人気の上昇ぶりを裏付けるとともに、省ロケ費用につながったバカ受け物語である。
しろうとエキストラのギャラは現在1日5000円なりが相場だが、東映が「松田作品に無料で協力してください」と新聞・雑誌で公募したところ、5000通もの申し出があったからびっくり仰天だ。17歳から25歳ぐらいまでの男女1300人を、クラシック・コンサート会場の聴衆役に選出したが、謝礼は原作の文庫本1冊と試写会の切符2枚ずつというもの。
平常ならエキストラ・ギャラ5000円×1300人=650万円となるが、ファンとはありがたいもので、文庫本210円(定価300円だが割引で)+ハガキ2枚分40円=250円、この1300人分で32万5000円。正午から午後6時すぎまで拘束したが、弁当を出すこともなかったから概算でも20分の1の経費で済んだ計算になる。
交通費自弁で、遠くは小田原から駆けつけた人もいるが、その中の1人、高清水洋子さん(高2)も「優作が見られるだけで最高。本も試写状もくれなくてもきたもん」と文句一つなし。むし暑いさなか、クラシック・コンサートの聴衆らしく全員"正装"風という条件にも従って黙々と撮影に協力するのだから、関係者はしてやったりだ。
松田作品は客を呼べると評が定番。今回も1億3000万円の製作をぶち込んだ作品だが、製作過程のロケから"客が呼べる"とは―――。それにしても、ファンとはホントに本当にありがたいものだ。
[1980年8月2日付]
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